
この記事では、僕気が1番大切にしている価値観を話そうと思う。
僕は弱いとおもう。
ココロも体も。
ここ最近スパーリングでタコタコにやられてばかりだ。

相手が本気で殴ってくる、いわば命を少し削るような戦い。
そこでは自分でも知らない自分が浮き彫りになる。
リングのコーナーに追い詰められて、どうしようもなくなったとき、僕はそれを受け入れてしまうタイプだと気がついた。
人間(や動物)が強いストレスや生命の危機に直面したときに、脳が無意識に選択する「生存本能に基づく防衛反応」。
つまり本能ってやつ。
それは3種類に分かれるようだ。
突っ込むやつ(闘争:Fight)
脅威に立ち向かい、打ち勝つことで生き残ろうとする反応。脳が危険を察知すると交感神経が優位になり、アドレナリンが大量に分泌され、心拍数があがって戦闘態勢に入る。
逃げるやつ(逃走:Flight)
脅威から全速力で遠ざかることで生き残ろうとする反応。こっちも「闘争」と同じく交感神経がフル稼働し、筋肉に血液が送り込まれていつでも走り出せる状態になる。
止まるやつ(凍りつき:Freeze)
「戦うことも逃げることもできない」と脳が判断した瞬間に起こる反応だ。
恐怖でパニックになり、体が硬直して動かせなる。野生動物が捕食者の前で「死んだふり」をしてやり過ごそうとするのと同じ、究極の防衛本能。
僕はこの3つ目がよく起こる。
今日のスパーリングでは相手が強く、
殴られて息ができなくなったり、もろにパンチを受けてロープを背負う。
となると「もう終わってくれー」と思っている自分に気がついた。
(銀色のヘッドギアが僕)

だから必死に反撃をした。ここで止まってはいけない。
しばらくするとゴングがなった。
顔に至る所から血が出ていた。
とまぁ今日のスパーリングの様子と気づきとちょっとした豆知識を書いた。
本題はここからだ。
そこまでして、どうして僕はボクシングをやってるのか?
なぜそんな苦しくて痛いのにやっているのか?
君は何者になりたいんだ?
そう問われることもあるし、自問自答も何度もした。
ここで「チャンピオンになりたいから」とか「大切な人を守りたいから」とか言えたらカッコいいだろう。とても分かり易いし。
でも本心はそうじゃないと僕は思う。
僕の中で出た答えは「生きることとはそういうことだから」というのが最も近い。
過去、僕には何者かになりたいと思うことがよくあった。
例えば
・ボクシング日本チャンピオン。
・年収1000万の実業家。
・ホワイトハッカー。
僕はこれを「何者かになりたい病」と読んでいる。
肩書きや地位を手に入れれば、「何者かになれば」みんなが羨望の眼差しで僕のことを見てくれる。
飲み会とか面接で実はボクサーやってます。とかいうとみんなおぉってなる。
ベンツやロレックスを買って、それをチラリと見せれば、まわりと格の違いを見せつけられるとそう思ってた。
実際にはそんなもの持ってないけど。
でもすごい人ってそうじゃないってことに生きていて少しずつわかってきた。
そう思ったのはこんな体験が重なったからだ。
大人になって久しぶりにゲームをやった。大学生の時にとにかくランクにこだわってたくさんしたゲーム(VALORANT)だ。
たまたまプロゲーマーと一緒にやる機会があったが、しかしその人はランクなんかついてなかった。
肩書き(ランク)なんて気にせず、ひたすらに練習してた。
ボクシングの日本チャンピオンだって、全然肩書き自慢なんかしてなかった。ただ毎日ジムに来て、目の前の課題に向き合って練習して帰って行った。
「何者かになりたい」という欲求で毎日ジムに来て練習に耐えているっていうよりも、目の前の練習に熱中している。楽しんでいる。そんな様子だった。
肩書きを求めている練習風景とはとても思えなかった。
彼らは無我夢中で(もちろん苦しいこともあるがそれも含めて)突破して、気がついて後ろを振り返ったら頂点にいた者たちなのだ。
僕はこういう経験を通して、肩書きとか年収とかそういうものは飾りだってことに徐々に気づき始めた。
肩書きやブランドものを身につけるということは有り体に言って仕舞えば「見栄」だ。
他人から見て自分がどう思われるかということが肝になっている。
肩書きがある → 他人がすごーいという → そうだ!自分は価値があるんだ!
ブランド品を持っている → 他人からすごい!と言われる → そうだそうだ!こんなものを持てる僕はすごいんだ!
と思う。
これは物事の価値や自分の価値を他人軸で決めているということだ。
自分にとって本当に価値があるものが、他人からみて価値があるものとは限らないし、
逆もそうで、他人からみて価値があるものが、自分にとって価値があるものとは限らない。
本当にすごいかどうかはその人の持っているものではなく、その人の実を見ないとわからない。
登山に例えるとわかりやすい。
「富士山に登った人(肩書き)です。」登頂証明書を見せつけてくる「何者」が現れる。

みんなはすごーい!あの富士山に!?へー!と称賛する。
見るべき本質は富士山に登頂した肩書きじゃない。
よくよく考えると頂上に登ることそのものが登山じゃない。
荷造りをし、天気や地形を見極めながら問題を超えていく。
途中道がなくて迂回するかもしれない。
天気が悪くてそこで野宿するかもしれない。
そのプロセスこそが登山だ。
ヘリコプターやゴンドラでサンドイッチを食べながら登ることが登山だと言えるだろうか。
だが、どちらも同じ登頂だ。
どの山に登ったかではではなく、どう山登ったか。
これがその人の実であるということに気がついた。
本当の価値はそこにあると思うのだ。
登頂することや、ブランド品を手に入れることは、お金を出してヘリコプターやゴンドラを使えば楽に手に入ってみんなから称賛されるかもれない。
でも、山に登るための知識や体力、相手のパンチを避けたり、羽根のようなフットワーク、鉄のように硬いガードみたいなものはどれだけお金をだしても、願っても手に入らない。
それはつまるところプロセス、毎日練習したり、体を鍛えたり、ひたすら知識を勉強したり・・・・。
その過程にしか宿らないものだ。
なにもブランドを持つことや肩書きを持つなと言いたいわけではない。
それらは鎧みたいなもので、貧困や蔑みの目や劣等感から守ってくれる。
ただ、何者か?という肩書きや見栄をもとめ執着することは、他人の物差しで生きていることだと気づいたのだ。
モノの価値は、他人ではなく自分が決める。
だから誰かにとっての何者になる必要なんてないのだ。

じゃあ結果を求めないならなんでやってるんだ?という話に舞い戻る。
その答えは、福本伸行先生(カイジ書いた人)の「天 天和通りの快男児」の最終巻、赤木しげるがほとんど同じことを言っていてはっきりしたのである。

大きな麻雀の勝負に負けて、才能の壁を感じて麻雀ができなくなってしまった青年ひろゆき。
そのひろゆきに対して、麻雀の天才、赤木しげるが伝えた一幕だ。
赤木は、名声や肩書きや権力、そう言った結果に振り回されて、活動しなくなることが、十分に生きていない、いわば半死だと言っている。
人というのは、活動することこそが生きることだ。ただ息をして、ものを食べていることが生きているということではない。
だから、結果(肩書き)を気にして他人の物差しで人生を生きたり、結果を気にした結果、動けないってのはいわば死んでいると同じだということだ。
その過程自体を楽しむこと、結果にとらわれずどの山に登るかではなくどう登るかにこだわることにのみ、人生の実があるということだ。
だから僕はボクシングをすることで何者かになろうとは考えていない。
ただ、相手のパンチをどう避けるかを考えたり、フットワークの練習をしたりするのみだ。
だから、プロになることは目的ではなくただの指標。
そうやって過程に全力をそそいで、機会に恵まれたり、必要になればプロテストを受けてみるだけで、合否に振り回されない。
仕事もそうだ。
誰もが名を知る一流企業に属して、高給をもらうという「肩書き」にはもう興味がない。自分で手を動かしてモノを作り上げる過程にしか、本当の価値はないと思っている。
ただ、リングの上でも、日常の中でも、立ち止まらずに目の前のことに励む。
肩書きや結果に振り回されず、自分の道をただ一歩踏み出してみる。
僕にとって、生きるとはそういうことなのではないかとおもう。
福本先生の作品、自分を見つめる作品が多いからこちらも読んでみて欲しい。